ビジネスの変化に対応しながら会社の中身を変えていくのが自分の役割(下) JBCCホールディングス 代表取締役社長 山田隆司



2017.2.2/東京・大田区のJBCCホールディングス本社にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

株式会社BCN 会長 奥田喜久男

<1000分の第182回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

東芝のオフコン製造からIBMとの提携へ

奥田 JBCCは1964年創業ですから、今年で53周年。でも、その前史がありますね。

山田 私が入社したときの社長の谷口(數造)さんが50年に創業し、52年に法人化した日響電機工業がそのルーツです。私にとって「社長」といえば谷口さんなのですが、中野高等無線学校を出て満州の陸軍技術研究所で研究をされた通信分野の技術者でした。

奥田 日響電機では、どんな製品をつくられていたのですか。

山田 計測器や音響部品と聞いています。その後、東芝のオフコンの製造を手がけました。

奥田 東芝のTOSBACですか。

山田 そうです。製造も開発もOSもすべて日響電機でした。自社で設計して、セットで東芝に納めていました。それを販売するために、64年に日本ビジネスコンピューター(JBC)を分離・独立させることになったのです。

奥田 日響電機でつくった東芝ブランドの製品を、JBCが販社として売ると……。

山田 そういうことです。ところが、77年には当社は自社ブランドの「JBCシステム-1」をリリースします。当時の通産省主導で行われた東芝とNECのコンピュータ事業の合弁が解消になったことで、東芝自身が小型コンピュータをつくることになり、いわば独立せざるを得ない状況になったからです。

奥田 国産の大メーカー傘下から外れ、独立独歩の道を歩み、そして外資であるIBMとアライアンスを組むという、大きな流れというかうねりがあったのですね。

山田 それぞれの“ポイント”で、創業者の谷口さんが大きな判断をされたのだと思います。

奥田 山田さんは2010年にホールディングスの社長に就任されましたが、経営者としてどんな資質を買われたと思われますか。

山田 自分では消去法で社長になったと思っています。たぶん、経営のセンスではないですね。

広報 ちょっと口をはさみます。以前、石黒(和義)前社長にうかがったことがあるのですが、いつも自然体であるということと、技術がわかることが山田社長の強みだということでした。

山田 初めて聞いた(苦笑)。

奥田 二つともうなずけますね。技術がわかるといっても、凝り固まった技術屋でなく、少し俯瞰してみておられると感じます。

山田 ありがとうございます。自分でできないことが多いものですから。

線路の配置からさまざまな想像をめぐらす

奥田 ところで、山田さんは布団屋の息子さんだとお聞きしましたが、ずいぶん柔らかいものから硬いものに変わられたんですね。

山田 群馬出身の父親が日本橋の生地屋で小僧として働き、独立して生地屋をやるのですが、それが布団屋に転業して、私が生まれてすぐに北区滝野川で開業したんです。それが私の実家で、大学に入る頃まではずっと布団屋をやっていました。ところが、父親の趣味が高じて、布団屋をやめて今度は麻雀屋になっちゃったんですよ。

奥田 え!マージャン。やはりお好きなんですか。

山田 よく店を手伝いました。メンバーが足りないときは代わりに打ちましたし。小学校2年から鍛えられているので、ほとんど負けませんでしたね。

奥田 筋金入りの雀士なんですね。すごい。そのほかにご趣味は。

山田 鉄道です。最近は鉄道趣味も世の中に認められてきましたが、昔は深く潜行して、あまり知られないようにしていましたね(笑)。

奥田 鉄道でもジャンルがいろいろあるようですが、山田さんは“なに鉄”ですか。

山田 乗るのも好きですが、写真も模型も好きなので、「撮り鉄」と「模型鉄」かな。日本の国鉄型車両が好きですね(……と嬉しそう)。

奥田 鉄道のどんなところに惹かれるのですか。

山田 理解されづらいと思いますが、私は線路が好きなんですよ。

奥田 もう少し具体的に教えてください。

山田 例えば、線路はポイントで分岐しますよね。その配置をみるのが好きなんです。自分で配線を考えたり、こういうふうに運用されるんだろうなと想像をめぐらすわけです。これは機関庫に通じている線路だとか、これは〇〇線と△△線が分岐するところだからこういう具合になっているんだとか。

奥田 お好きな場所は?

山田 池袋駅や新宿駅など、複雑な線路配置の駅が好きですね。上野駅もいいですね。列車の先頭や最後尾に乗って、線路をずっと見ていることもあります。車両も好きですが線路のようなインフラが好きで、子どもの頃は線路配置を方眼紙に書いたりしていました。なかなかわかっていただけないと思いますが(笑)。

奥田 その複雑な線路を経営に重ねるとしたら何になるのでしょうか。

山田 当社は事業会社のM&Aや分割、事業譲渡などを毎年のようにやっていますが、そういう全体の事業構造を考えることに、けっこう通じるところがあるかもしれません。

奥田 持株会社のしたに事業会社が13もあるというのは、山田さんのご趣味なんですか。

山田 いやいや、これは趣味ではありません。歴代社長の果たした役割を振り返ると、2代前の社長の栗生(晴夫)さんの時代は、赤字体質を黒字体質に変えて財務状況を改善し、収益力を大幅にアップさせました。前社長の石黒さんは、規模の拡大を果たしました。それで私の役割は何かといえば、中身を変えることではないかと自分では思っています。これまでのビジネスモデルが崩れつつあるいま、同じ姿勢でいては立ち行かなくなるでしょう。

奥田 世の中が変わり、技術も変化していますからね。

山田 それに対応するために、いまのセットをガラッと変えることが自分の役割だと思っています。

奥田 それが配線ですか(笑)。

山田 ええ、それが配線です。単純にM&Aで規模を拡大するというのではなく、中身を整理しながら、少しずつ事業の中心をモノの販売からサービスにシフトすることが求められていると思います。

奥田 なるほど。線路の向こうにある風景が変わっていくがゆえに、配線も変えていくということなのですね。ありがとうございまいした。



こぼれ話

 会社には“ニオイ”がある。香水の漂う“それ”ではない。社屋を見ながら敷地に入り玄関へ、さらに受付へと深度を増すしたがって漂ってくる。JBCCにも感じた。といっても、JBCCを創業した谷口數造さんが最初に旗揚げした日響電機工業の“ニオイ”である。1974年に訪れた。創業から四半世紀経った大倉山の工場である。最初の面談者は工場長であったと記憶する。社屋にもその人にも戦後の“ニオイ”がした。もう一つの印象は、工場に活気があってワクワクしたこと。それ以来、機会をみては企業の大小を問わないで足しげく工場訪問をしている。

 ニオイとは、経営者が醸し出すオーラではないかと思っている。ある時期、JBCCにはIBMの資本が入っていた。それ以降、社長には日本IBM出身者が就き、業績の回復とともに会社の“ニオイ”も変化した。この路線でJBCCの経営は継続するものと思っていたら、プロパーの山田隆司さんが社長に就任するという案内状をもらった。時の社長である石黒さんの人事に思わず感情移入してしまった。これで創業者の谷口さんも心から会社経営を日本IBMに委ねたことに安堵したのではないか。

 谷口さんと私は親子ほどの年齢差がある。創業者という最高指揮官の立場から、コンピュータの知識ゼロの記者が生意気盛りになるまで叱咤してもらった。印象に残っていることは、企業の存亡に立ち向かっている生の姿。取り繕いをしないでいつも以上にしゃがれた声で、「こうしようと思っているんですよ」。難しい局面が伝わってくる。ここまでは人の話だと思って聞いている。「おくださん、どう思うね」と投げかけられた瞬間に背筋が伸びた。

 山田さんを介して谷口さんと会っているような気がした。次回は谷口さんを肴にして盛り上がりたいですね。


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